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「ローカルメディア」として地域の魅力を発信する
長野県佐久市のローカルメディア「おかさく」として、佐久市の魅力を発信し続けている岡田 薫さんにお話を伺いました。岡田さんが考えるローカルメディアを運営することとは。 メーカーのシステムエンジニアから地域の魅力発信者へ これまで「佐久のファン」として、町の魅力発信を行ってきましたが、現在では、佐久市のローカルメディア「おかさく」としてYouTubeを利用した動画配信を行っています。地域の、魅力あふれる方々のインタビューを通じて、もの作りをする人の最終アウトプットではなくて、そこにある思いやプロセスなど、ストーリーを紹介しています。僕自身は、大阪出身で、23歳から10年間東京のメーカーでシステムエンジニアとして働いていました。海外の工場にシステムを導入する仕事で、やりがいを感じていたのですが、10年目に部署を移動になって、やりがいを見失って退職。退職後は約1年2ヶ月の間、東京の自宅を拠点に全国各地を旅していました。2018年の初めに個人事業主登録をし、同じ年の秋に起業して、インターネット販売を行っています。でもメインの活動は「おかさく」としての情報発信です。 偶然の出会いから佐久市へ移住 仕事へのモチベーションを失って退職したので、退職後は自分が何をしたのか突き詰めようと思い、ボランティアをしながら日本全国の面白い人に会いに行く旅をしていました。ある時、岐阜県高山市のゲストハウスで、ペンキ塗りや左官のボランティアをしているときに、佐久市の江原さんに出会いました。そこで初めて、佐久市という場所があることを知りました。その後、新型コロナウイルスによる緊急事態宣言があり、東京の自宅でスーパーの買い占めや食料品不足があり、お金を持っていても買えないものがある、むしろ人とのつながりの方が大切なのではないか、と思うようになりました。この経験から地方移住や多拠点居住を検討するようになり、現在は、東京と佐久の二拠点居住をしています。 人の優しさが佐久市の魅力 多拠点居住を検討する上でいくつか候補があった中で、最終的に佐久市に決めたのは、環境の良さです。東京から新幹線で70分という近さも魅力でした。いきなり完全に移住するとなるとハードルがありますが、佐久市はすぐに戻ることもできる距離感です。さらに夏は涼しく、空気も綺麗で景色もいい。長野県は食料自給率も200%といわれるほど食も豊です。また、暮らすようになってから気が付いたのですが、人がすごくいい。この点が最大の魅力でしたね。人が優しくて親切です。 「おかさく」としての情報発信 「おかさく」としては、地域事業者など情報を発信されたい方の店舗や商品のPR、イベント告知などを行っています。進め方は情報を発信されたい方からヒアリングを行い、一緒に内容を整理して、僕自身の目線で編集し、動画に落とし込むというやり方です。基本的に費用はいただいていません。それは、僕自身が「ヒトの役に立つこと」が好きで、「地域を応援したい」「地域に貢献したい」という気持ちがあるからです。 また、「安心で楽しい暮らし」を創りたいという想いも持っています。お金に頼り過ぎずに、自分の暮らしを創っていきたい。そんな想いからも地域で活動して、仲間を増やしていくことに価値を感じています。今後は、他地域の方が佐久市の魅力的なヒトと出会えるような仕掛けづくりも考えています。 https://www.youtube.com/watch?v=Ptj_gRF3vzM&feature=youtu.be シェアハウスで暮らすことから始める移住 僕は柏屋旅館というシェアハウスを利用しています。いまは、月に7日間宿泊で10,000円というプランを利用しています。地域に入るきっかけとしてシェアハウスに住んでみるのはお勧めです。知り合いがいない地域でも、シェアハウスに住むと近所の方も訪ねて来たりするので、確実に知り合いが増えますね。敷金や礼金もかかりませんし、生活に必要なものもある程度揃っています。特に柏屋旅館はゲストハウスでもあるので、旅人もいて、いろいろな人に出会うことができます。 自分の個性を伸ばして見つける仕事 僕が人生を通して実現したいことは、自分の世界に一つだけの花を咲かせたいということです。そのためには、個性を伸ばして自分にしかできないものが見つかればいいなと思っています。僕が思う個性は「自分がワクワクする」ということなので、いま佐久市でワクワクすることを一つずつ増やしているところです。その活動の延長上にライスワーク(ご飯を食べるための仕事)ではない、仕事が見つかるんじゃないかと思っています。今後も佐久市のローカルメディア「おかさく」として楽しみながら情報を発信することで、いろんな方に佐久市を訪れてもらいたいですね。 Youtube(おかさくちゃんねる)FacebookTwitterInstagramnote
自分に問う、存在を作品として表現する
留学先のポーランドから、そのまま長野県佐久市へ移住。アーティストが集うシェアハウスで暮らしをスタート。現在は、パートナーである石田諒さんとクリエイティブユニット「換気扇とクローゼット」としても活動されています。 ポーランドから佐久市へ帰国、移住をスタート 佐久市へ来る前は、ポーランドに留学していました。人生の転機となる経験で、ポーランドでは他の留学生と一緒にドミトリーに住んでいました。留学生同士の対話や関わりの多い暮らしで、帰国してからも東京以外の場所で、そうした環境に身を置けないだろうかと考えました。ポーランドからインターネットでシェアハウスを探しているときに、佐久市の柏屋旅館を見つけました。すごくいいなと思ったので、オーナーに連絡をして、内見もせず、入居願を出しました。住み始めた当初は柏屋旅館もオープンしたばかりで、3名いる住人のうち2名は実家や職場に寝泊まりすることもあり、常時、柏屋旅館に暮らしているのはオーナーと私だけでした。その時期に、地元のことも教えて頂きました、また、地域のいろんな方が訪問してこられて、イベントもたくさん開催されるようになりました。地域のいろいろな方と、自然と知り合いになることができ、柏屋旅館に入居したことで、能動的にも受動的にも地域の人たちと繋がりあうことができました。今の活動にもプラスになっています。 アーティストとして、デザイナーとして アーティストとしては「反復」をテーマに作品を創っています。もうひとつは「神の存在」を解釈するというものです。どちらもインスタレーションで表現しています。父方の祖父が画家だったので、アトリエがありました。私も小さな頃からそこで遊んでいたので気が付いた時には絵を描いていました。両親も、すごくアーティスティックな人で、父はヴァイオリン奏者として活動しており、私が東京藝術大学へ入学し、その後アーティストとして活動していくことも全く否定せずに応援してくれたことには感謝しています。私にとって、アーティストという名前は、その人自身の生き方や生業以外の要素を含む言葉であると思っているので、職業としてのアーティストというよりはロール的なもの、役割としての名前がアーティストなのではないかと思っています。ですから仕事としては、アーティストとしても収入は発生していますが、絵を描くことを世の中に昇華していくっていう意味では、最近ではデザイナーとしての側面もあります。 自然の傍での作品創り 循環や自然のサイクル、命ということや神様ということ、人が生きることを考えていくにあたって、ファクターとして骨を使った作品を創りたいと思うようになりました。佐久市にきて、山で生活をしている方にその話をしたら、鹿を分けてくださったので、共同で活用している土地に鹿を埋めました。漂白するのではなく、微生物に分解されて土の色が沈着した骨になるんです。これ以外でも、東京に居ては自分の作品のテーマや、物質的な実現もできないなっていうのがありました。自然が傍にあることで、作品が飛躍できるのではないかという大きな期待を持って佐久市に来たということがありますね。また、自分の中に流れている東洋的な思想の中で、神様という存在の影響を感じるのですが、長野と東京を比較すると、長野の方が土着の人々が信仰していた名残のようなものが各所に残っているのを間近で見ることができます。佐久に住んでること自体でインスピレーションを受けることができていますね。 佐久市でのちょうどいい暮らし 佐久で暮らして2年半ほどになります。ちょうどいい場所というのが利点としてあると思っていますね。すごい田舎でもないし、行こうと思えば東京にも行ける。行こうと思えばすごい秘境の場所にも行けるし。という感じがちょうどよくて住みやすいし、そこが魅力ですね。実は、私は移住という言葉があまり好きではありません。別の場所からそこに住み着くということではなくて、人は本来、移動しながら文化や価値観を運んでいくものなのではないかと思っています。移住についても、住み着くというよりは、また別の場所に行ってもいい、戻ってきてもいいんだよという部分を含みながら考えたいなと思っています。“ ここち良い生き方”について考える パートナーには他人とは思えない近しいものを感じています。呼吸が合うような。作品創りも、二人でやっていることが多いですね。クリエイティブニットである換気扇とクローゼットのコンセプトは、“ここち良い生き方”です。この“ここち良い”ということにはいろいろなものがあると思うのですが、それぞれが“ここち良い”ということとは何かを考えることが大切だと思っています。自分との対話です。本当の意味で、「自分と話をしているか」ということを問いただすべきなんじゃないかと思っています。そうしたことを考えた上で、“ここち良い生き方”とはなにか、“良い”とはどういうことなんだろうということを考えてもらうきっかけを、活動を通して創りたいと思っています。 存在を作品として表現する 私たちはお互いを尊重するために、籍を入れずに結婚し、選択的夫婦別姓を疑似的に実現しました。「どうしてできないんだろう?」という、自分の中に起こるうずうずした感覚を、社会に対して不満として出すことも大切ですが、悲しいのか、怒りを感じるのか、もっと自分で解釈していくことも必要なのではないかと思っています。その上で、事実婚で、お互いに別の姓で生きている人たちが、楽しそうにここち良く生きているというだけで、姓が同じじゃなくてもいいんだ、姓を変えなくてもいいんだとていう思いを持ってもらうことができるのではないか、と。ユニットの活動では、そんな風に二人の存在が作品になれたらいいなと思っています。 中井伶美プロフィール換気扇とクローゼット
可能性を狭めない“ここち良い生き方”
東京都世田谷区で生まれ。2016年に長野県佐久市に移住。視覚や文章での表現を探求しながら、パートナーの中井伶美さんとクリエイティブユニット「換気扇とクローゼット」としても活動されています。石田 諒さんが考える“ここち良い生き方”についてお話を伺いました。 言葉や文章で表現すること 高校卒業後に、専門学校で映像を学び、テレビの制作会社に就職しました。やがて、高校から続けてきた映像作品の自主制作をしていくにあたって、ドラマやドキュメンタリーづくりに必要な教養と、言葉を使った表現について学びたいと考えるようになり、受験をして法政大学文学部日本文学科に入学しました。もともと自分の感情を言葉にすることが好きで、高校時代から日記やブログを書いました。そういったものを、私小説のような“表現”として昇華できないかなとも思っていて。在学中にゼミの中で何本かの短編を完成させたことは大きな経験となっています。現在もSNSは、僕にとって表現の一つだと思っているので、日常的に発信しています。将来的には長編の物語を書き上げることが人生の目標のひとつですね。“文章で表現する”ことは一生かけて学ぶテーマだなと思っています。2020年の秋には、長野県上田市の上田市中央公民館主催「第60回上田市短詩型文学祭・詩(ポエム)の部」で市長賞(大賞)を受賞しました。文章表現を深めた先のひとつの結果をだすことができたのではないかと思っています。 全く想像していなかった地方都市への移住 大学卒業時に、東京にずっと居続けるのかなと考えるタイミングがありました。就職が決まっていなかったことや、当時お付き合いをしていた方が長野に帰るということが重なり、複合的な理由で全く想像していなかった地方都市への移住を決めました。それまで旅行で長野県を訪れたことはありましたが、住む、生活するイメージは全然沸いていませんでした。仕事は一般企業での就職も検討しましたが、企業数が少なくて。全く知らなかった地域おこし協力隊の仕事をたまたま教えてもらい、試験を受けて実際にハタラクことが決まったのは、移住直前です。急だったので引っ越しまで一か月もないという感じで。佐久市がどの程度発展しているのかもよくわかっていなかったので、メジャーなポイントカードやチェーン店の会員カードなどをほとんど東京で処分してきてしまうくらいでした。今となっては笑い話ですが。住んでみると佐久市は東信地方の中でも1、2を争うくらい都会ですし、発展していますね。 外から来て刺激を与える、地域おこし協力隊としての活動 地域おこし協力隊では、望月という地域の文化と中山道の活性化というテーマで勤務していました。具体的には、市民勉強会や地域の文化祭などをサポートしていました。僕は写真を撮ったり文章を書くことができるので、広告物の作成や、SNSでの情報発信などを担当していました。なにか素敵な行事やイベントがあっても、地域の中から情報がでていかないので、佐久市地域おこし協力隊の公式ページのほか、個人のSNSも大いに使って発信していきました。それが仕事なのか、自主的なものなのか、趣味なのかあいまいでしたが、効果としては一番大きかったことかなと思います。SNSによる地域情報の発信は今も続けています。地域おこし協力隊は、外から来てなんらかの刺激を与える役割だと思います。僕は良くも悪くも都会が好きな人だったので、地域にとってはインパクトがあったのではないでしょうか。いわゆる田舎に対する誤解とか、思い込みとかも、少しずつ出して行ったので、反響は大きかったのかなと思います。 地域で需要のある“技術を持った働き方” 協力隊退任後の仕事は文筆と写真撮影で、長野県東信エリアの農業と食を紹介するフリーペーパーに写真を撮って記事を書く仕事や、病院や学校のパンフレットの表紙や人物撮影などをフリーランスとして請け負っています。100%県内の仕事です。地域おこし協力隊時代の人づてで依頼していただくことが多く、不思議と途切れていません。仕事ではアーティストとしてではなく、依頼主との信頼関係を築いて、相手の意向を汲みながら進めるというキャッチボールがうまくできているように思います。そう思うと、地域には技術を持っている人材は都会に比べるとまだまだ不足しているので、技術があると需要は高いですね。これから移住を検討される方も、就職だけでなく、独立自営や複業など、自分はこれだけは誰にも負けません、これなら楽しんでできます、みたいなものをもっていらっしゃるとうまくいくのではないでしょうか。 移住後の暮らし方、楽しみの見つけ方 移住をする場合は、もともと田舎暮らしをしたくて来ている方や、旅行で来たことがあって移住を決めたという方が多いと思います。僕は、降ってわいたように佐久に来たので、移住してから、いかにこの地を面白く思うか、魅力を見つけられるかを探し続けました。仕事もあって、遊びもできて、人にも会えるということを探求したが、そのことはおそらく人生そのものですよね。その中で、パートナーとの出会いは大きなものでした。ばりばりのアーティストである妻と出会って、素直に生きよう、ごまかさないで生きようと思うようになりました。二人でクリエイターとしてもパートナーとなり、表現し、作品を創り続けていることはとても豊かなことです。 移住後はアーティスト活動として、自主制作のドキュメンタリー映画の上映会を6回開催した “ここち良い生き方”について考える 佐久市にきて、パートナーと出会い、“ここち良い生き方”とは何だろうと考えるようになりました。働きすぎずに、楽しいと思うことを増やして行くこと。断る時は断り、これはちょっと難しいですと言えること。反対にこれをやりたい、というときにはいつでもやれるようスタンバイしておくこと。足腰が弱っていくと激しいスポーツが難しいとか、今から歌手にはなれないとか、僕なら文学賞を取るのは難しい、無理でしょうということではなく、いくつになってもやりたいと言えて、周りも応援してくれる。自分も自分を騙すのではなく、これできるよと言えたり、立ち直ったりできる状況。まだ研究中ではありますが、そういったメンタルや状況のあることの総称を、僕は“ここち良い生き方”と呼んでいます。可能性を狭めない生き方ですね。佐久市で暮らす中で刺激的な方にたくさん出会えました。こうでなければいけないという価値観を壊されて、やりたいことをやっていっていいんだな、いつ切り替えてもいんだなと思えるようになりました。そうした経験から、“ここち良い生き方”について考え、発信できるようになりましたね。 視覚とイメージと言葉 換気扇とクローゼット
自然との共生 山を創る
田村市に生まれ田村市に育った桑原直人さん。自然とヒトとの共生をテーマに、山に向き合い、山を創るきこりとして活躍されています。 自然の中でハタラク 山でハタラク 生まれ育った田村市できこりを生業にしています。学生時代は電気について学んでいましたが、就職する時に「自然の中で働きたいとい」と思うようになっていました。就職活動中に、偶然ハローワークで森林組合の求人を見つけ「これだ!」と林業の世界に飛び込み、きこりになって18年経ちました。 木を切るという殺生の理由を考える きこりの仕事は森林整備です。間伐を行いながら、木を育て、森を守ります。木は日の光があって水があれば成長するので、育てることは自体はそれほど難しくありません。難しいのは、「自然とヒトがどうやって共生してくのか」ということですね。例えばヒトの都合だけで無作為に木を切ると、暮らしに関わる水の流れが悪くなるということが起こります。ヒトの暮らしは自然に依存している部分が大きいので、木を一本切るだけでも自分たちの生活に影響がでます。木を切るということは殺生です。殺生するならば、切った木材を役に立てなければいけないし、殺生するだけの理由が必要です。自分たちの都合で邪魔だからと木を切ってしまうのではなく、木の命一本を奪う理由もきちんと考えて、自然とヒトが共生していくことが大切だと思っています。 自然を敬い感謝する気持ち 入山するときは一礼してから山にはいりますし、木を切る時もおまじないをしてから切ります。自然を敬う気持ちで山に向き合っています。そうすると、丸太になった木を足蹴にすることもなくなりますし、大切に優しく扱うようになります。敬う気持ちや感謝する気持ちを持つことで仕事に対する姿勢も変わってくると思いますね。殺生した木がちゃんと高く売れてほしいと思いますし、売れないともったいない、最後まで使い切るようにしたいと思っています。後輩にもこうした考え方をできるだけ伝えるようにしています。 自然とヒトとの共生 50年後を見据えた山創り 田村では、建材にするために植林した木の伐期は50年といわれています。僕も仕事を始めた年に植林をしました。50年後にその山に再び携わることを楽しみにしています。仕事ではいつも50年後、100年後と自分が死んだ先にも続くものを想像しながら働いています。 丸太の価格は1980年代が一番高く、いまは当時の三分の一程度になっています。ですから、木は売れないというイメージを持っている方も多く、相続された方の中には山はいらないとおっしゃる方もいます。昔の田村には、冬は林業、農繁期は農業を生業として家も多くありました。いまでは、山に携わらなくても生活できるようになり、山離れが起こっています。建築木材が外材に押されるなど、山離れにはさまざま理由がありますが、山の価値はひとつではありません。ヒトの心を癒す景観にしたり、映画に出てくるトトロ山のように子供と過ごせる山にするとか、持ち主のニーズに合わせて山を創ることができます。経済林としてだけない、人間の想像を遥かに超えた可能性が自然にはあります。 山と向き合う中で矛盾も感じています。自然はそもそもヒトの手を借りなくても成長します。僕は山の中に入りたいからきこりとして整備をしているけれど、間伐しなくても自然は自然のままで淘汰もされます。手をかけているのは経済林として木をお金にするための人間の都合です。山で稼ぐことと自然と共生することの折り合いをいつも考えています。田村でいきていくきこりとして、自然とヒトとの離れられない関係の中で「共生」は大きなテーマです。 自分もヒト山も木も一緒に楽しみながら、ハタラク きこりという仕事を通して、関わってくれているヒトたちみんなと楽しい方向に進んでいきたいと思っています。そのためには、自分の希望も叶えていきたいし、周りのヒトの夢も叶えてあげたい。きこりは本当に奥が深い職業だと思います。そのせいか山に入るといつも楽しいです。ハタラクのその先にいつもこの“楽しい”という気持ちを持っていたいですね。自分もヒトも山も木も一緒に楽しみながら、ハタラクを実現していきたいと思っています。
賑わいを生む 町の魅力を発信する
群馬から移住し、田村市地域おこし協力隊として活躍する大類日和さん。地域暮らしの魅力をデザインや動画で発信すること、若い世代の方の賑わいや場づくりについてお話を伺いました。 クライアントやお客さんの喜ぶ顔が見える働き方 僕は群馬県出身です。田村市の地域おこし協力隊として、株式会社ShiftでグラフィックデザインやWebデザイン、動画の制作などを行っています。もともと大きな組織の中でハタラクよりは、クライアントやお客さんの喜ぶ顔が見える働き方に興味がありました。群馬にいた頃も、デザインや映像の仕事をしていたので、このスキルを活かし、尚且つ地域に貢献できる働き方、笑顔が見える働き方として、地域おこし協力隊を選びました。今は、田村での起業する準備期間です。 地域の中の“顔の見えるつながり” 地域でハタラク面白さは、顔の見えるつながりができやすいところですね。地域でお会いした方の中には、僕が地域おこし協力隊として田村に来たことを、広報誌などですでに知ってくださっている方もいらして。制作の取材で地域の方を訪ねたときも、「ああ、田村に来た人ね」という感じで、僕が知らない方でも、すんなり受け入れてもらえることが多かったです。優しい方が多く、取材に伺っても「いいから食べなさい」とお漬物をたくさん出してくださったり。仕事そっちのけでおしゃべりに花が咲くことも多いです。次に会った時も皆さん気さくに声をかけてくださいます。地域の方に受け入れて頂けている感じが嬉しいです。 賑わいを生む居場所。交流拠点を創る ただ、やっぱり地域の中に若いヒトが少ない点については気になっています。学校や仕事の都合で転居してしまったり、田村に暮らしていても土日は郡山や仙台に出かけてしまって町中にはいなかったり。同世代の方と田村で交流する機会が少ないと感じています。いま、僕はテラス石森を拠点に仕事をしているのですが、例えばここに賑わいを生むことはできないかな、と考えています。チャレンジショップのような形で、カフェの出店があるとか、ユニークな商品を集めたセレクトショップがあるとか。こちらから声をかけて若い世代のヒトたちをイベント的に集めるだけでなく、居場所ができることで交流が生まれるのではないかなと思います。思わずヒトが集まりたくなりような仕掛けを創ってみたいですね。 動画で発信する地域の魅力、地域の暮らし 映像の仕事も、地域に貢献できるものだと思っています。先日も田村で仲良くしていただいているお肉屋さんに取材に行き、仕事風景を撮影させてもらいました。なかなか知る機会がなかった仕事の内容がとても面白く、興味深いものでした。動画だと、この「面白い」と感じた部分を表現しやすいように思います。田村の中でも僕が「いいな」とか「面白いな」と感じるものがたくさんあります。そういったものの一番いいところを動画にして発信していくことで、田村の魅力を伝えることができます。ただきれいなものを面として切り取るのではなく、動画として見せることで、地域で暮らす面白さをそのまま感じていただけるのではないかと思います。今後は場づくりによって、町の中に賑わいをどう生みだしてくかということと、動画として切り取った町の魅力を発信することに、積極的に挑戦していきたいと思っています。
DIYで得る自己満足 自分で創って感じる幸せ
長野県・佐久市で、住まい手さんが自らの手で家を創る“セルフビルド”をサポートする、えんがわ商店の渡辺正寿さんにお話を伺いました。DIY(Do It Yourself)で創る幸せとは。 「自分でモノを創ること」の面白さ 出身は栃木県です。学生の時に神奈川県横浜市に行って、そのまま横浜市でハウスメーカーに就職しました。その後、長野県上田市に勤めたい工務店があったので転職しました。やがて工務店を退職し4年ほど、建築関連の仕事からは離れていました。それまで建築の仕事は営業や広報だったので、現場でモノを創る経験はありませんでした。でも仕事として建築から離れていた期間に、自宅の庭に自分で薪小屋を建ててみて、「自分の手でモノを創ること」の面白さや可能性を感じたんですね。その経験からセルフビルドをサポートする、えんがわ商店をはじめました。 住まい手の想いを表現するセルフビルド セルフビルドパートナーは住まい手さんが家をつくる時に、ご自身で手を動かすことを推奨しています。“自分の住まいを自分の手で創る”お手伝いです。具体的には壁塗りや床貼りの内装と小屋づくりなどですが、ニーズは住まい手さんによってさまざまです。一見難しそうな作業でも「やってみませんか?」とお声掛けすると意外とできてしまうことも多く、こちら側でできないと決めつけたり、型にはめすぎないように気を付けています。「家は三回建てないと満足しない」といわれますが、「なんでなんだろう?」と考えてみると、住まい手さんの想いや希望を、専門の作り手だけでは表現しきれないからではないかと思います。家は、住まい手さんの自己表現に近いものだと思います。想いを表現するには、住まい手さんが表現できる場と機会を創ること。そうすることで、理想に近い住まいができあがるのではないかと思っています。 DIYは「自己満足」 僕は一日中作業をして、夕方くらいに自分が創ったモノを眺める時間が大好きです。30分でも1時間でも眺めていられるくらいですね。誰かが見ると「よくできたね」で終わってしまいますが、創った自分はよくできたところが一番わかる。「Do It Yourself」いわゆるDIYはいい意味で「自己満足」なのだと思います。いつの間にかできてしまったものよりも、自分の手で創ったモノであれば、「少し失敗しちゃったけど、よくできたな」と愛着もわくし、満足できる。この自己満足を感じてもらうということが、えんがわ商店の一番のサービスです。 幸せの感度を上げる、自分を満たす DIYは家を創ることだけではありません。料理を創る、文章を書く、写真を撮る、コミュニティを創ることなどもDIYだと思っています。どれも自分で創り上げたという満足感を得ることができますし、自己満足を感じることが自信につながり、自己肯定感になると思います。日常の中でDIYによる小さな成功体験を積み重ねると、幸せの感度も上がります。幸せを感じる帯幅を広げて、DIYで自己満足する。幸せは主観的なものです。自分自身が満たされる状況を自分でどうやって創るのかを考えてみると、DIYが役に立つのではないかと思っています。 自分を表現しやすい、地域での暮らし 佐久市に移住したのは、草原の目の前で暮らしてみたいと思っていたからです。それと、なんとなく自分に合いそうな感覚があったから。最初は何もないように感じていましたが、今では面白いヒトが増えて魅力的な町になってきていると思います。何もなかったから、みんなDIYで生み出しているのかもしれません。地域での暮らしはDIYに向いていると思います。発信すれば、地域のローカル検索エンジンみたいなものに引っかかって誰かとつながることができる。自分で表現したいことがあるヒトにとっては、表現しやすいのが地域だと思います。 幸せの感度を広げるお手伝い 自分自身が建築から離れていた時期に、農家で働いたり、小屋を創ったりしてみて、「ああ、意外となんとかなるんだな」と気が付きました。都市型の消費する暮らしでなく、なければDIYで創る。DIYが選択肢のひとつになれば、逃げ道ができるんだなと。自分で命を絶つという選択をせざるを得ない方にとっても、視点を変えれば選択肢がほかにもあること、逃げ道があることを伝えたい。逃げたらだめという思い込みを外していきたいですね。逃げてもいいし、誰かに頼んでもいいし、自分でDIYしてもいい。自死を減らしたいというのも、僕のテーマのひとつです。地域では、暮らしもハタラクもDIYも全て隣り合わせ。その中で自分を表現できるし、自分なりの生き方が実践できる場所。自分がハタラクを通して表現することで、一人でも多くの方の幸せの感度を広げるお手伝いができたらいいなと思っています。
楽しみながらハタラクことで、誰かを幸せに
福島県・田村市を中心に、川内村周辺を含むあぶくま地区で活躍する大島草太さんにお話を伺いました。ご自身の経験から見つけた生きる、ハタラクの価値。地域おこし協力隊としても活躍しながら、地域と共創する事業に取り組まれています。 大学時代にフィールドワークで出会った都路町に移住 栃木県出身です。教員になろうと思っていたので、カリキュラムが充実している福島大学に進学しました。大学1、2年生の時にフィールドワークで川内村に出会い、地域の課題解決を行っていました。そこから田村市都路町でも活動するようになりました。3年生の時にワーキングホリデーでカナダのトロントに行き、帰国するまで中米からアジアまで20ヶ国程を旅しました。日本に戻ってからは、125㏄の高速道路も走れない小さなバイクで、福島から九州までを旅しました。国内外でさまざまなヒトと出会いながら旅を終え、自分に水の合う場所で働いて生きていこうと思い、学生時代に関わっていた都路町に移住することに決めました。 生きている大人たちがかっこいい場所 都路町に決めたのは、そこで生きている大人のヒトたちを「かっこいい」と感じたからです。都路町も震災時に一部が避難指示区域となり、ヒトが離れている時期もありました。今暮らしているヒトたちは、”何かや誰かのせいでなく、自分の想いで地域に暮らし、自分の生き方をしています。ハタラク世代だけでなく、仕事をリタイヤして自然の中で暮らしを楽しんでいるおじいちゃんやおばあちゃんもいて、その生き方もかっこいい。日本中いろいろな場所を見ましたが都路町で暮らすヒトの姿を見て、自分はこの場所で生きていこうと決めました。 世界を旅して見つけた、自分の生き方働き方 トロントでは結婚式場のキッチンで働いていました。一緒に働いていたヒトたちは、所得が多い訳ではありませんでしたし、労働時間も長かったけれど、みんなハタラクことが楽しそうでした。その姿に、それまであった“大学までストレートに進み、いい会社に行っていい仕事につく”という一点しか見ないような価値観が一気に崩壊しました。自分にとってのいい会社、いい仕事、ハタラクってなんだろう? と当時はずいぶん悩みました。でも次第に、「自分がいいと思う生き方をしよう。いい働き方を、死に物狂いで創りだそう」と思うようになりました。 地域の素材を使ったワッフルの移動販売でPR 都路町で暮らすことを決め、地域のヒトに話していく中で、どこかに勤めるのではなく、地域の課題を自分の力で解決していく働き方があるのではないかと思いました。そこで、地域の食材を使って、他地域にPRを行うKokage Kitchenを大学在学中にスタートさせました。Kokage Kitchenはキッチンカーで、川内村のそば粉と実、田村市の日本ミツバチの蜂蜜、都路町の卵を使ったワッフルの販売を行っています。将来的にはキッチンカーで全国を回りあぶくま地区の魅力を発信していきたいと思っています。 行政区を越えたあぶくま地区での活動 都路町を中心に活動はしていますが、暮らすうちに地域のヒトが行政区にこだわっていないことに気が付きました。僕自身も都路町だけでなく、川内村なども含む、あぶくま地区をベースに活動している意識です。その中で、現在は田村市の地域おこし協力隊として、グリーンパーク都路の活性化と、2020年にスタートするクラフトビール会社のお手伝いもしています。グリーンパーク都路では、第1、3月日曜日の月2回、Kokage Kitchenも出店し、地域へのヒトの流れを生みだしています。今の目標は、協力隊の任期中に地域の方との関係をさらに深め、自分の事業も形にしていきながら、3年待たずに事業一本でやっていきたいと思っています。 自分が楽しくハタラクことで周りも幸せに 都路町ではヨソモノだった自分も歓迎してもらえました。地域に入っていったときは学生でしたが、起業したことで学生として見られることはなくなり、一人の事業者として周りの方が対等に扱ってくださっています。復興を掲げ、一緒に協力し合う。その一員であることが嬉しいです。都路町だけでなくあぶくま地区全体にいえることだと思いますが、新しいチャレンジについて応援してくれるヒトが多い場所です。先日もグリーンパーク都路でKokage Kitchenを見たおばあさんが、「楽しそうだから私も隣で、かんぷらやき(福島の郷土料理)のお店をだすわ」とおっしゃられたことがありました。僕自身が楽しんでハタラクことがそんな風に伝わって嬉しかったですね。自分が楽しみながらハタラクことで誰かが幸せになる。そんな生き方、働き方を目指していきたいです。
自然と農と、地域での暮らし
埼玉県から長野県・佐久市に移住。移住後に未経験から農業をはじめて8年目。小さなころから自然が好きだったという磯村 聡さんに、農のある暮らしと地域とのつながり、里山の自然を守る想いについてお話を伺いました。 移住は「失敗しても、だめでもいい」 農業を始める前は、国立公園の自然ガイドや野外体験施設のスタッフとして働いていました。子供の頃から自然が好きで、自然とヒトをつなぐ仕事をしたいと思っていました。佐久は母の実家です。祖父が高齢になり農業はもうできないという話を聞いたときに、昔からよく通っていた大好きな里山で何かできないかなと思い、移住することにしました。不安もありましたが、「失敗してもいい、だめでもいい」という気持ちでまず行動しました。最初から農業をやるつもりではなかったのですが、畑と田んぼがあるなら、作物を作ってみようと思い、一年間の農業研修を受けてから佐久に移住しました。8年経った今は、炭素循環農法で、野菜を育てるつながり自然農園として、主にミニトマトやフルーツコーンの生産を行っています。 移住先での仲間づくり 佐久には知人もいませんでしたし、移住当初は孤独感も感じました。でも目の前の農業のことに手一杯で、落ち込む暇はありませんでした。初めの一年は思い通りにいかないことも多く、試行錯誤の連続でした。何をやっていたのか覚えていないくらいです。最初は地域の若い世代のヒトたちとのつながり方がわからなかったのですが、佐久には若手の農業者の方が多いことがわかり、そうした方の会に参加するようになりました。ここでさまざまな出会いがあり、友達と呼べるヒトにも出会うことができました。 地域のヒトとの連帯感 住んでいる地区には、専業農家の方は少ないですが、皆さん小さくても畑や田んぼを持っています。暮らしてみると農は地域を作っている部分が大きいなと思います。どの家でも畑の草を伸ばしたままにすることはなく、「そろそろ刈らなきゃいけないな」と思っていますし、地域全体で地域を保とうという連帯感があります。みんなで清掃をしたり、観光資源になる花を植える作業などを行うことで一体感が生まれます。こうした日常の中で、助け合う意識が当たり前に醸成されているように感じています。地域の子供たちも人数は少ないですが、世代に関係なく一緒に遊んでいます。大人も子供も世代を越えた交流ができるのは、地域の魅力の一つだと思います。 自然+農を軸にしたもう一つの生業 作物を作って売るということ以外に、農を軸にしたいくつかの生業を持っています。ひとつはうちやまコミュニティ農園で、ここには農をベースにしたサードプレイス的役割があります。かかわり方もニーズに合わせて選択していただくことができます。もうひとつは、自然ガイドの経験から、田植えや、稲刈り、トウモロコシ収穫や、ホタル観察、田んぼの生き物観察や、畑キャンプなどの自然体験を県内外の方にも楽しんでいただくサービスを作っています。いずれも自然+農を軸に地域の魅力を伝える生業です。 農のある暮らしをデザインする これから力を入れていきたいことは、“一坪家庭菜園”の普及です。これは、1m×1mくらいの土地を木枠で囲って、プランターのように土を詰め、野菜や植物を育てるものです。コンクリートの上でもできますし、小さな範囲なので手入れも楽です。地方でも都市部でもどこででもできます。この一坪家庭菜園では、誰でも気軽に農のある暮らしを実現することができます。考え方やノウハウを広めることで、農に対するハードルを下げることができればいいなと思っています。一坪家庭菜園を通じて、農のある暮らしにさらに興味を持ってもらえるなら、次はコミュニティ農園に来て頂いたり、その先は移住や就農につながっていくのかもしれません。 Photo:石田 諒 身近なヒトを大切にすることで自然を守る 以前は、自分が農業に携わることで里山の環境を守りたい、関わるヒトに自然を好きになってもらいたいと、少し壮大に考えている部分がありました。でもいまは、地域のヒトやSNSの発信によってつながり、共感し合えるヒトたちなど、身近なヒトをまず大切にしたいと思うようになりました。そうした想いこそが結果的に里山を守っていくことにつながっていくのではないかと思っています。
安心して暮らしていける町をつくる
福島県・田村市にある、奥州福島 聖石温泉の若女将として活躍し、2019年にはキャンプ場・聖石温泉ベースキャンプもオープン。田村市観光キャンペーンクルーとして町の魅力を発信し続ける、村越芽生さんにお話をうかがいました。 大好きな田村市でハタラクを選択 田村市生まれの田村市育ちです。一時期、別の場所で暮らしたこともありましたが、離れてみると田村市の良さがよくわかるようになり、戻りたいと思っていました。今は、田村で祖父が23年前に創業した奥州福島 聖石温泉を継いで若女将として働いています。私は三兄弟の長女ですが、親から稼業を継げとは一言も言われていません。でもこの町が好きだし、大好きなおじいちゃんが始めた温泉を残したいという気持ちから、自分で継ぐと決めました。 田村市の魅力は地域のヒトの温かさ 田村市の魅力はなんですか? とよく聞かれますが、実は一言では説明しづらいですね。私は犬を飼っていて、散歩はいつも30分くらいで終わらせる予定でいるのですが、歩き出すと、近所のおじいちゃんやおばあちゃんに話かけられます。そこで世間話をしていると、「家にトウモロコシあっか?」と聞かれて、「ないです」と答えると、畑で作ったトウモロコシをたくさん下さるんですね。いつも誰かが目をかけてくれていて、声をかけてくれる。その点に安心感を覚えますし、近所に住んでいらっしゃる方はみんな自分のおじいちゃん、おばあちゃんのように感じています。ヒトの温かさは田村の大きな魅力だと思います。 町の賑わいを生むキャンプ場をオープン 地域の同級生は自分も含めて15人ですが、ほとんどの人が仙台や郡山などへ出ています。同級生で残っているのは私ともう一人の方だけですね。若い人達が集まる場所や働く場所が少ないことも影響していると思います。このことをこのまま見過ごしてしまうと町が廃れてしまう、誰かが問題視しないといけないと思いました。そこで、自分なりの取り組みのひとつとして、2019年に聖石温泉ベースキャンプをオープンしました。聖石温泉の前の道路は、日本一周の旅をされている方が多く通行されます。これまで、温泉を利用してくださる方もいましたし、旅の途中に、父とお酒を飲んで語らってくださる方もいらっしゃいました。そうした方々が集う場所としてキャンプ場を作りました。情報発信にはSNSを活用しています。旅行者の方の口コミ効果もあり、夏場は毎日15名程の方が利用してくださるまでになりました。この賑わいを町の方も好意的に見守ってくださっています。若い人達が活躍できる町にすることは私一人の力ではできませんし、都市部のまねをすることでもないと思います。田村なりの魅力を作っていくことができればと思っています。 田村市観光キャンペーンクルーとしても町の魅力を発信 田村を若い人達が戻ってきたいと思えるような町にしたいと思っています。でも自分は田村が大好きなので、反対の気持ちを考えるのは難しいことです。少しでも町の魅力を再発見して発信していけるように、田村市観光キャンペーンクルーとしても活動しています。これは、市によって選任され、観光PRなどを行うものです。2020年には第7期に続き、第8期のクルーとしても選任されました。ここでも、市に依頼されたイベントへ参加するだけでなく、SNSによる情報発信に力をいれています。クルー同士協力して、町の情報を調べ、独自の観光情報を発信し続けています。学生時代は勉強があまり好きではありませんでしたが、今は町のために学び、発信することを楽しめています。 どんな立場の人も安心して暮らしていける町をつくる 来るヒトにも、住むヒトにも田村を好きになってもらいたいと思っています。そのために賑わいをつくりたいですし、温泉やキャンプ場が役に立てば嬉しいと思っています。もうひとつの大きな目標は、障がいのある人とその家族が安心して暮らせる町をつくるというものです。弟が障がいをもっていることで、気が付いたことが少なからずあります。障がいを理解できないヒトが居るのもわかります。以前、障がいのある方が葡萄を育てて、ワインをつくる施設の話を聞きいたことがあり、その仕事を「かっこいい!」と思いました。そんな風に、障がいをもっている方でも活躍できて、かっこいい!と思える仕事を田村でもつくりたいです。ハタラクを通して身近なところに障がいのある方が、当たり前にいる環境が生まれれば、偏見も無くなるのではないでしょうか。“いろいろな立場の方が安心して暮らしていける町”を田村で創っていきたいと思います。
ヒトのために生きる移住、起業
企業人からの移住、地域おこし協力隊として活躍後、地域で起業。長野県佐久市で、日本古来の植物であるマコモダケを活用した事業と道の駅の管理運営を行う加藤夕紀子さんにお話を伺いました。 「移住して、ヒトのために身体を使って生きよう」 3.11でお金があってもモノが買えないという経験をして、「お金は紙切れなんだ」ということに気が付きました。「なんで紙切れのために人生の選択をしていたんだろう」という疑問を抱くようになって。経済至上主義にクエスチョンが湧いたんですね。5年程モヤモヤを抱えていた期間にパートナーを亡くし、しばらく落ち込んでいました。でもある時に、「そうだ、仕事を辞めて移住しよう!自分の身体がまだ元気で動く内に、ヒトのためにこれまでの経験やキャリアを活かそう」と思い立ったんです。そう思ったら、心も元気になっていきました。移住を決心して、半年後には佐久市での暮らしをスタートさせました。 佐久市での仕事が決まったのは、移住決定後 東京で勤めていた会社は退職することにし、移住を決めた時点では次の仕事は未定でした。地域のハローワークにも行きましたが、私の希望であった社会貢献できる仕事には巡り合えませんでした。そんな中で参加した、佐久市の移住フェアの座談会に、市長の柳田清二さんが参加されていて、仕事のことを相談したところ、地域おこし協力隊が佐久市でも始まるので、応募してみてはどうかとアドバイスをくださいました。東京で移住の準備をしている間に、地域おこし協力隊としてハタラクことが決まり、担当地域で“食と健康”をテーマに仕事をすることになりました。正直にいうと収入面について不安はありましたが、いざ暮らし始めてみると、無理に節約するわけでもなく、普通に暮らす中で貯金もできました。都市部と地方ではお金のかかり方が違うんだなということを実感しましたね。 移住を決めたのは、土地が体に合う感覚があったから 出身は東京です。社会人になってからも東京で働いていました。もともとは、キャンプやアウトドアに全く興味がなくて(笑)。将来自分が地方で暮らすなんて全く想像していませんでした。でも、東京で働いているときに八ヶ岳に遊びに来たことがありました。仕事のストレスなどで心身ともにとても疲労していたのですが、八ヶ岳に滞在している間にみるみる疲れがとれ、どんどん元気になっていって。この経験があったので、移住先は八ヶ岳の傍がいいと思っていました。知人の紹介で佐久市を案内してもらい、土地にインスピレーションを感じたので、佐久市に移住することにしました。今は当初のインスピレーション通り、山々を眺めなら快適に暮らしています。 地域おこし協力隊終了後に仲間たちと起業 地域おこし協力隊の任期中に「マコモダケ(マコモタケ・真菰筍)」という植物に出会いました。マコモダケは9月~11月頃を旬として根元を食べることもできますし、葉は乾燥させてお茶として飲んだり、筵(むしろ)などの生活用品の素材にもなります。その歴史は古く、縄文時代には日本人の生活の中にあったようです。日本書紀や万葉集にも記載があり、現在でも出雲大社のしめ縄に用いられるなど、霊性の高い植物ともいわれています。もちろん、それまで農業の経験はありませんでしたが、素材の面白さにひかれ、今は三反の田んぼを借りてマコモダケを自分の手で育てています。また、地域おこし協力隊任期終了後は仲間達とともに会社を立ち上げ、その中でマコモダケの生産から加工、販売までを事業化しました。その他に、道の駅ほっとぱ~く浅科の運営管理も行っています。 Photo:山うえ雅子 組織に雇用される働き方からパラレルワークへ 起業も、移住当初は予定していませんでした。それまでは組織に雇用されているのが楽だし当たり前。雇用されていないと不安でした。でも移住して価値観がどんどん変わっていきましたね。暮らし方もシンプルになりましたし、ないものは創ればいいと思うようになりました。一つの会社から収入を得るよりも、パラレルワークとしていくつも仕事を持っている方が生き方として楽なのではないかなと。こうした働き方や暮らし方を知ったことで、ものすごく心に余裕が生まれたように思います。それまでは、狭い範囲でしか見ていなかった物事について、移住して仕事を変え、生活が変わったことによってものすごく視野が広がりましたね。 Photo:山うえ雅子 移住を検討している方は、まず飛び込んでみてほしい 佐久市には「何かやってみよう」と実践されている方が多い。チャンスがたくさんあります。受け身ではなくて攻めていきたい方にはうってつけの場所だと思いますね。移住を検討されている方には、考えすぎないで一度飛び込んでみることをお勧めします。失敗なんて、本当は人生にないと思っています。どんな経験もあとで生きてきます。ダメならまた戻ればいいし、でも案外どうにかなってしまうものですよ。